カーボンリスクの情報開示

 

上智大学経済学部

教授 上妻 義直

 

 カーボンリスクは気候変動に起因する非物理的な企業リスクの総称である。たとえば、気候変動に関連して、政策や規制の強化、省エネ技術の向上、省エネ製品市場の拡大、消費者の意識変化等が起れば、企業の収益動向やコスト構造に著しい影響を及ぼす可能性があり、それらへの対応如何によっては、企業経営にとって大きなリスクとなる。

 

 中でも注目すべきは、世界が気候変動の深刻な影響を回避するために脱炭素化する過程において、エネルギー産業の化石燃料資産に減損が発生し、その結果として、投資家のポートフォリオに財務的リスクが生じることである。これは企業リスクが投資家のリスクに転嫁したもので、カーボン資産リスク(carbon asset risk)と呼ばれている(Mark Fulton& Christopher Weber, Carbon Asset Risk: Discussion Framework, WRI & UNEP FI Portfolio Initiative, 2015 )。

 

 2015年11月のCOP21で成立したパリ協定では、世界の平均気温上昇を2度未満に抑制することを長期目標とし(1.5度未満目標にも言及)、その実現に向けて今世紀後半には人間活動に由来する温室効果ガス排出量を正味ゼロにするために、途上国を含むすべての国が排出削減に取り組むことが合意された。

 

 これが誠実に履行されると、エネルギー転換の急速な進展が予想され、その結果、化石燃料の消費が著しく制約されて、化石燃料採掘会社の保有する化石燃料資産に巨額の減損を生じるおそれがある。いわゆる「カーボンバブル」の崩壊である。それは、当該会社に投資する投資家のポートフォリオを棄損するだけでなく、各国証券市場で同時多発的に発生することにより、大きなシステミックリスクになると懸念されている(上妻義直稿「炭素バブルの減損リスク情報」『會計』第188巻第1号(2015年7月号))。

 

 こうした状況で、投資家がカーボン資産リスクの評価に不可欠な情報開示を求めるのは、至極当然なことといわなければならない。しかし、2015年にフランスのエネルギー転換法が上場企業に気候変動の財務的リスクに関する情報開示を義務付けたことを除けば、現在のところ、このリスクを伝える仕組みを十分に整備する財務報告制度は存在していない。

 

 現在進行中の取り組みとしては、G20の要請を受けて、金融安定理事会(FSB)が設置した気候関連の財務情報開示に関するタスクフォースがある。2016年4月にはフェーズI報告書が公表されており、年末にはフェーズII報告書(最終報告書)の公表が予定されている。しかし、その内容は、制度的な開示書類である企業年次報告書での自主的開示に関する勧告またはガイドラインであって、現行の制度的規制との関連や比較可能性を担保できるような適用促進手段については必ずしも明確にされていない。そのため、この開示スキームが、カーボン資産リスクの評価に有効な情報提供にすぐ役立つか否かは、依然として不透明なままである。

 

 開示制度の不備に対して、投資家はすでに自主的な対応を始めている。カーボンバブル問題が表面化した2013年頃から、欧米では化石燃料採掘会社への投資を引き上げるダイベストメント(divestment)運動が盛んになり、年金基金等の機関投資家が相次いで投資先から化石燃料採掘会社を除外した。また、投資を継続する年金基金等も大規模な投資家ネットワークを構築し、カーボン資産リスクの適切な開示を求めて、化石燃料採掘会社に株主提案を繰り返すようになってきた。

 

 カーボン資産リスクの情報開示には現行の減損会計が適用できない。カーボン資産リスクは化石燃料資産の減損額そのものではなく、減損が将来発生する確率だからである。リスク評価の時点ではまだ減損が発生しておらず、化石燃料採掘というビジネスモデルと脱炭素化に向けた政策動向が、論理的帰結として減損発生の可能性を強く示唆するだけにすぎない。しかし、そのリスクが顕在化する確率は高く、顕在化した場合の経済的・社会的影響は甚大である。重要性の観点からは財務報告における情報開示が不可欠になる。

 

 カーボン資産のリスク評価に際して、リスク資産の大きさ、経営者が想定するリスクの発生確率、リスクが顕在化した場合に企業に与える財務的影響は、当面開示が必要な情報セットになるだろう。いずれもこれまでの財務報告では使われてこなかったリスク評価の開示手法である。

 

 リスクの所在は、資産が排出する温室効果ガス量にあるので、その大きさは資産利用による温室効果ガス排出量で測定することになる。

 

 また、リスクの発生確率は、国際的な気候変動政策の動向に大きく依存するので、国際エネルギー機関(IEA)が2013年版「世界エネルギー需給見通し(World Energy Outlook)」で採用したような気候変動政策シナリオ等を利用して、想定できる複数のシナリオごとに、それぞれ影響分析をするのが現実的かもしれない。これは感度分析とかストレステストと呼ばれる手法であり、リスクの財務的影響について分析することができる。

 

 

IEAの気候変動政策シナリオ

シナリオの名称 シナリオの内容
新政策シナリオ 各国が最新の自主な気候変動施策を実践する場合
現行政策シナリオ 各国が現行の気候変動政策を継続する場合
 450政策シナリオ  気温上昇を2℃未満に抑制する場合

 

 カーボンリスクの情報開示を考える場合には、さらに注意しなければならないことがある。パリ協定の目標に向かって各国の気候変動政策が強化されれば、リスク資産の範囲は化石燃料採掘会社の化石燃料資産だけにとどまらないことである。

 

 電力・ガス等のエネルギーインフラ関連産業、自動車・関連部品等の輸送機器産業、航空・船舶等の交通産業、セメント・鉄鋼等のカーボン集約的な製造業など、エネルギー転換の影響で投資コスト増等の多面的なリスク要因を抱えるビジネスは産業規模で拡大する。

 

 この場合に必要なリスク情報には、リスク資産の規模やストレステスト以外に、ビジネスモデル、成長ビジョン、中長期目標、戦略、ガバナンスといった、脱炭素化社会の中で企業成長をどのように構想するかに関する経営情報全般が含まれることになるだろう。しかし、ほとんどの国の財務報告制度において、重要性原則の厳格な適用を期待する以外に、これらの情報開示を促進する具体的な制度的規制は存在していないのが現状である。